ラベルと中身

私は実家の二階で毎日ごろごろしていて、文章を書ける時はこうして文章を書いているが、文章を書けない時は本当に何もしていない。労働を極限まで減らしたいので収入はほとんどない。病気もよくなる気配がない。基本的に人と会わない。身体的苦痛と経済的苦痛とが常にダブルで効いてきている状態で、しかもこいつらには「オフ」の概念がない。病気でつらくない日はないし、お金に余裕がある日もない。この先何年たっても病気がよくなることはないだろうし、したがって収入が増えることもないだろう。何がどうなるのを待てばよいのかわからない。今日、私はたまたま生存しているけれど、明日も引き続き生存したいと積極的に願っているわけではない。積極的に死にたかった時期もあったけれど今はそうでもない。契約の更新がなければ今日をもって人生終了、みたいなことになったらなったでまったくかまわない。


いまの私自身に価値があるかと言われたら、おそらくほとんどないんだろうと思う。ただ、そのことをもって「だから死にたい」とはならない。「病気で全身だるいので死にたい」というのは数えきれないほどあったけれども、「いまの自分には価値がないから死にたい」と考えたことはこれまでに一度もなかったし、これからもないだろうと思う。「価値がない。何もできない。で、それがどうかしたの」という調子で、波風ひとつ立たない。来世も人間になれるのであれば、また私になりたいとさえ思う。病気になるだろうことがあらかじめわかっていたとしても、お金に困るだろうことがあらかじめわかっていたとしても、私以外の誰かになりたいとは思わない。私は、いつなんどきでも私でありたい。

 


いま私が自己肯定感と呼んでいるものが、世間一般におけるそれと同じものであるかどうか厳密にはわからないが、そう大きくは間違っていないだろうと思うのでこのまま続ける。自己肯定感というものは、その人自身の内側から無限に湧いて出てくるものであるはずだ。「私は私であってよい」という感情が無限に湧いて出てくるのだ。わんこそばのようなものをイメージするとよいだろう。本人がいらないと思っていようがなんだろうが無限に供給されてしまう。不足することがないのだから「高めたい」もくそもない。したがって、「自己肯定感を高める方法」などというものはない。そういった類のものはすべてフェイクだ。もともと湧いてこない体質の人が何をどうがんばったところで湧いてくるようにはならない。

現状、「自己肯定感を高める方法」として一般に流通しているものの中身は「自己肯定感と同等の機能を、自己肯定感でない別の何かでもって実現する方法」であって、ラベルと中身とがまったく合致していない。ただ、本来的に自己肯定感を生成できないタイプの人が、自己肯定感と同様に機能する何かしらを確保することができて、その人にとっての具体的な問題が結果的に解決するのであれば、「これは本物の自己肯定感であるか」みたいなところで神経質になる必要もないような気はする。ラベルと中身とが合致していない時は中身を信用するべきである。肝心の中身が「だめな自分をまるごと受け入れることから始めよう!」みたいなわけのわからないどうしようもないポエムであっても、ラベルを無視することさえできればそれはそういうものとして割り切って消化できる人もいるのではないか。だめかな。やっぱり腹立つかもしれないな。「それができねーから困ってんだよ」って、なっちゃうだろうな。


「自己肯定感と同等の機能を、自己肯定感でない別の何かでもって実現する方法」と正直に申告したのではインパクトに欠けるとの判断が、どこかしらのタイミングで、どこかの誰かによってなされたのだろうと思う。「自己肯定感を高める方法」を伝授する体で耳目を集めている人間は、もちろんそれが偽物であることをわかっている。個人の内側から無限に湧いて出てくるものを、わざわざ外部から調達しようとする人間などいないからだ。そして、いま現実に困っている人たちにとって「自己肯定感を高める」ことはおそらく手段であって目的でない。それぞれが具体的な問題を抱えているのだろうと思う。「死にたい」であるとか、「もてたい」であるとか、「友達がほしい」であるとか。おおむね対人関係の不調に由来する、さまざまな問題があるのだろう。手段と目的との取り違えが発生した時、そこには搾取の入り込む余地が生まれる。自己肯定感を得られないことが諸悪の根源であるかのように、自己肯定感を高めることが目的であるかのように誤認させられてしまっている人たちがたくさんいる。

 

動機について

いま私が抱えている苦痛は、お金がなくて生活が苦しいことによって発生しているので、この苦痛を軽減するためには手段はどうあれとにかく現金を入手するしかない。したがって、個人としての私の収入が増えるか減るかといったことに直接関係のないところで誰が何をしようが、それによって私の苦痛の量が変化したりはしない。あなたが楽しく暮らしていることによって私の生活が楽しくなることはないし、あなたが私よりも苦しんでいるからといって私の生活水準が上がることもない。相対的評価に興味がない、と言ってしまってもいい。

 

ただ、相対的評価に興味のない人間は、この社会においてどちらかといえばマイナーな存在であるだろうことも今の私にはわかっているわけで、つまり、いま私がきついと感じていること、またそれをわざわざ文章にして公開することによってどこかで何かが起こる可能性はまったくないわけではないのだろうし、最低限「毎晩寝られなくて苦しんでいるのはあなただけではない」ということだけでも伝わってくれていればそれでよい。

 

ベストヒット2019春

前々回のエントリにおいて「アクセントのことをイントネーションと呼ぶ人があまりにも多いのがつらい」などといらんことを書いてしまったがために私の中の「げんなりセンサー」的なものの回路がつながってしまいまして、症状は着実に悪化しております。
せっかくなので今回は、げんなり方面における個人的なトレンドをもうひとつ紹介しましょう。ツイートにするのはいやらしいですからね。他に書くこともないですし。書かないとやっていられないというのもあります。

 

  •  近所のコンビニの店員が私が吸っているたばこの銘柄を記憶してしまった

主語と述語とが離れすぎていてつらいんです。*1
これは例文なのでわざと短めにしていますが、現実の社会はとても厳しいものでして。
そこそこの長さのツイートを実際に画面表示してみるとわかるんですが、だいたい20字前後で改行が挟まってくる関係上、述語の位置が遠いです。とにかく遠い。

述語の位置が文末固定で動かせないのは日本語の仕様ですからどうしようもありません。ならば主語を移動しましょう。他にも読点をつけるなり、助詞を工夫するなり手段はいろいろあるんですが、移動だけで問題が解決するのであれば移動だけをするのがもっとも楽だと思います。

  • 私が吸っているたばこの銘柄を近所のコンビニの店員が記憶してしまった

これで世界に平和が訪れました。意味内容的には戦争もいいとこなんですが。

 

「主語を、いつなんどきでも文頭に置く」というのは、どちらかといえば会話の作法であるように思います。おそらく、一般に流通しているツイートのうちのほとんどは、話しことばを文字に起こすようにしてできあがっているのでしょう。本来的に、書きことばでなかった。しかし私は、少なくとも今の私は、本来的に書きことばでなかったものを、むりやりに書き言葉として処理しようとしてしまうのです。「ツイートは音声でなく文字によって伝達されている」ということだけをその根拠として。そして私はいつも疲弊しているのです。

 

twitterを利用するにあたって、私は「書きことばを読みたい」という動機のもとに、いろんな人をフォローしてきました。9年間ずっとそうでした。したがって私が直接フォローしている人のツイートだけを読んでいるのであればそう大きな事故は起こらないのですが、たとえば勢いのあるツイートが繁華街経由でドーンとRTされてきた場合などはいかんともしがたいです。そして勢いのあるツイートというものは数日にわたって何度も繰り返して表示されるのが常ですから、こうなるともう、すいません私が悪かったですとしか言えなくなってしまいます。

 

*1:別バージョンとして、「修飾語と被修飾語とが離れすぎていてつらい」というのもあります。

手段と目的

時間を金で買う行為ってあるでしょ。
たとえば普通列車で2時間かかるはずのところ、特急料金を払うことによって1時間で着ける。浮いた1時間を使って、その人は何かしら有意義なことをする。このとき特急料金が仮に4000円だったならば、その人は1時間を4000円で買ったことになる。

私はこれの逆をやりたい。時間で金を買いたい。お金持ちが「金に糸目はつけない」とやるようにして、私は「時間に糸目はつけない」とやりたい。
お金持ちが時間を金で買うのはなぜかというと、お金が過剰であるのに対して時間が不足していてバランスが悪いからでしょう。
今の私は、時間が掃いて捨てるほどあるのに対してお金がまったくない。きわめてバランスが悪い。

お金持ちが時間を金で買うにあたって、具体的にやっているのはこういうことだ。

  • 駅の一角に切符販売機があって、4000円を投入すると高級な切符が出てきて特急列車に乗れる。結果、その人の可処分時間が1時間増える。

4000円と1時間とで等価の交換になっている。私はこれの逆をやりたい。具体的には、

  • コンビニの一角かどこかに「お金販売機」的なものがあって、1時間を投入すると4000円が出てくる。結果、その日の私にとっては1日が23時間になる。

というようにしたい。ところが現状そうはなっていない。そうなっていないこと自体は仕方がない。「お金販売機」だなんて、自分で書いててこいつ頭おかしいなと思うもん。私の興味(というか憤慨の対象)はむしろ、現状の労働のあり方が、時間で金を買う行為の具体例としてあたかも適切であるかのような体で社会全体が回っていることの方にある。

 

私は時間とお金とを単純に交換したい。お金を得る代わりに差し出せるものとして私が用意しているのはあくまで時間のみである。私は労働をしたいのではない。労働(ようするに生身の人間との接触)をすることによって気力体力尊厳その他もろもろを消耗することは望んでない。そういうのはもういい。お腹いっぱいだ。かんべんしてくれ。


私は、お金持ちがやっていることの逆をそのままやりたいだけなんだ。お金持ちは金で時間を買うにあたっていっさい疲弊していない。お金だけが余っているのだから、お金以外のものを彼らは差し出さない。私もそういうフェアな交換をしたい。重要なことなので何度でも言う。労働をしたいんじゃない。時間で金を買いたい。「時間で金を買いつつ疲弊したい」のではない。時間だけが大量に余っているのだから時間だけを買い取ってもらいたい。笑顔だとか挨拶だとか、あたりさわりのない会話だとかが欲しいのであれば他を当たってほしい。うちはそういうの扱っておりませんので。

 

気力体力尊厳その他もろもろをいっさい介在させることなく、本当に時間だけをお金で買い取ってもらえる取引が仮に成立するのであれば、レートに関してはとやかく言わない。なにしろ時間なんかいくらでもあるんだから安売りしたところで痛くも痒くもない。1時間4000円どころか800円でも、500円でもいい。なんだったら300円でいい。毎日12時間づつ売れば日給3600円だ。それだけあれば貴族のような生活ができる。1日が12時間になるが何の問題もない。寝て起きるだけで1日が終わっているのだからこんなにありがたい話はない。ここまできたら毎日20時間売ってしまうのも手だ。1日が4時間。12時間寝て起きたら外の世界では3日経過しているわけだ。もちろん、今の私はそれでまったく困らない。というか、だったらもう24時間全部売ることにして明日お葬式ということでよくねえか。

 

このさきに じごくへつづく みちがある

病気で心身をぶっ壊してしまって以降の数年間、ほぼ twitter しかやってない時期がありました。人と会わない。会話をしない。労働をしない。布団から出るのはトイレと食事の時だけ。500人程度をフォローしつつ、流れてきたツイートは全部読む。そういう感じの生活を、だいたい5年間くらいやってました。

ここ数年は、その twitter すらやってないに等しい状態が続いています。ごくたまーに、だじゃれを垂れ流すのみ。毎日何をして過ごしているのか、自分でもよくわかっていません。

 

いま Twilog で確認してみたところ、2012年の年間ツイート数が9117。対して、2018年の年間ツイート数が32。

べつにツイートするのをやめようと思ってそうしてるわけではないし、twitter やめますとか、別のところへ移住しますみたいなことを今ここで宣言したいわけでもないんだけどね。

ひとつひとつは小さなことかもしれないけれど、いろんなことが積み重なっていった結果、なんとなくこうなってしまった。

 

「ひとつひとつは小さなこと」の具体例を挙げるとするならば、たとえば「アクセントのことをイントネーションと呼ぶ人があまりにも多いのがつらい」みたいなこと。これはべつに憤慨しているのではなくてね。ちゃんとしろ、と言いたいわけではなくてね。

他者のことばづかいに対する、ちょっとした引っかかりがあると、本題に入り込めない。ことばづかいってのは定着しちゃったもん勝ちみたいなところがあるからどうしようもない。いまさら他者の言動を矯正したいとは思わないし、そんな情熱もない。

これはようするに私のコンディションの問題であって。私には「他者のことばづかいの不正確さをスルーできる状態」と「他者のことばづかいの不正確さをスルーできない状態」とがある。セーフの状態があれば、アウトの状態もある。というか基本的に体調が悪いので、だいたいアウトです。で、アウトの状態の私にとっては、「アクセントなんだけどな......」みたいなことを小声で発しながらログアウトする以外にできることは何もないわけですよ。そのこと自体をツイートにするのもいやらしい感じがしてしまうし。

 

いつのひか ここをとおるもののために

「東京は、お金のある人にとっては楽しいところです」みたいな意見を目にすることがあって。私自身の、かつて東京で7年ほど暮らした体験からいっても、それはまあそうだよなと思うところはある。

「お金のある人にとっては」の部分を省略しないまま発言しているのは、実際に東京で暮らしながらお金に困った経験のある人たちなんだろうと思う。そうでないならば単に「東京は楽しいところです」で話が完結してしまっているはずだからだ。そして彼らはおそらく、「金がないんだったらここへは来ない方がいい」というようなことを言いたいんだろう。それは、地方における「金銭的に豊かであるが文化的に貧しい暮らし」と、東京における「文化的に豊かであるが金銭的に貧しい生活」とが天秤にかかっている状態の人にとって重要なメッセージでありうる。

しかし、いま私は地方において「金銭的にも文化的にも貧しい暮らし」をしているわけである。どこにいても貧乏生活なんだったら東京を選ばない理由がない。お金さえあれば今すぐにでも東京へ引っ越したい。